人は、自分が死んだことに気づけるのか?
あなたは今”生きている”と信じているであろう。
それは本当なのか?死んでいると気づいていないだけではないのか?
そして、死んだと気づかない存在を、私たちはどう呼ぶべきなのか。
「死人(しびと)」という言葉が、かつてはごく普通に使われていた。
それは単なる死者の別称ではない。
“死んだことに自覚のない死者”、あるいは“死者であることを隠して存在しつづける者”・・・そんな、日本独自の死生観に基づく幽玄な存在だった。
しびとは、ゾンビではない。
ゾンビは、西洋的終末観に基づいた「死の暴走」であり、「人間の終わり」を象徴する。
しびとはもっと静かで、もっと私的で、もっと・・・近い。
(終わらない夏の怪談話ではない)
しびと:まだ此岸にいる者
仏教の影響もあり、日本では「死後の旅」が語られることが多い。
死んだ者は六道のどこかへと赴き、生まれ変わる。
だが、それは“ちゃんと死ねた者”の話だ。
この世界には、「ちゃんと死ねなかった者」がいる。
死んだことに気づかず、毎朝同じ道を歩き、かつての家に戻り、見えぬ相手に語りかける。
こうした存在が「しびと」だ。
民俗的には“浮遊霊”“迷い霊”などと呼ばれることもあるが、本質は「死に気づいていない=生きているつもりの死者」である。
宗教的に言えば、彼らは供養されていない。
心理学的に言えば、彼らは“自己意識の断絶”にある。
哲学的に言えば、彼らは“存在の座標”を見失っている。
妖怪:しびとの“形”を与えられたもの
しびとは、次第に「輪郭」を持ち始める。
名前を持ち、姿を持ち、伝承の中で役割を持つようになる。
それが、妖怪の誕生である。
たとえば山姥は、山で死んだ老婆の化身だという説がある。
天狗は、戦で討たれた者の変化だと語られた。
河童、鬼、ぬらりひょん・・・その多くに共通するのは、「人ではないが、かつて人だったかもしれない」という曖昧さだ。
しびとが“形”を与えられるとき、そこには集団の想像力が加わる。
死にきれなかった個人は、共同体の中で妖怪として“物語”になる。
それは宗教的な“救済”とは別の、文化的な“変換”であり、哲学的に言えば「死の記号化」、心理学的には「集団トラウマの代償作用」でもある。
幽霊:しびとに感情を与えたもの
そして、近代に入ると「幽霊」が出てくる。
彼らはもう“存在”ではない。“物語”でもない。
感情そのものが死から抜け出して、姿を得たものだ。
『四谷怪談』『牡丹灯籠』
そこに登場する幽霊たちは、明確に「私」があり、「あなた」に恨みを持っている。
死者の世界ではなく、生者の世界に感情の残滓を投げ込んでくる。
それは、個人化された“しびと”の最終形とも言える。
宗教学的には、死者供養の失敗による祟りという構図だが、心理学的には「未処理の記憶」が可視化されたもの。
哲学的には、“死”が“意味”を持って再来する現象でもある。
西洋のゾンビとの決定的な違い
ここで、ゾンビとの比較を挟みたい。
| 視点 | しびと | ゾンビ |
|---|---|---|
| 自覚 | 死を自覚していない | 自我を持たず、完全な死体 |
| 行動 | 日常をなぞる | 生者を襲う |
| 関係性 | 村・家・家族との関係の中にいる | 他者との無差別的破壊 |
| 感情 | 持つ場合もある(恨み・未練) | 感情を持たない |
| 扱い方 | 成仏・供養・共感 | 排除・撃退・終末的 |
ゾンビは、“人間性を失った死体”だ。
しびとは、“人間性を引きずる死者”である。
この違いは、死に対する文化の距離感そのものである。
西洋は死を“異物”として切り離し、日本は死を“風景”として受け入れた。
だから、ゾンビは撃ち殺すが、しびとは弔う。
ここに日本の「八百万神(やおよろずのかみ)文化」が見えるかもしれない。
そう、しびとにも”神”が宿っていると考えたのかも。
そして、いま
現代人は、妖怪を信じない。
幽霊もネタにする。
話題に出さなかったが、妖精に対してはありがたがり可愛いとさえいう。
だが・・・しびと的なものは、今も私たちのまわりに満ちている。
朝、同じ時間に同じバスに乗る老人。
長屋で、ひとことも言葉を発さずに消えた隣人。
日記にだけ残る「生きた痕跡」。
もしかすると、私たち自身が、まだ“自分が死んだことに気づいていない”存在なのかもしれない。
死者は遠くない。
妖怪も幽霊も、私たちの背中にそっと寄り添っているだけだ。
気づくか、気づかないか。
それだけの違いなのだ。
死人(しびと)になっていませんか?
構想・構成・整文・レイアウト:北のいわし
ドラフト:ChatGPT Type-S
制作して参加しているグループ