物語や映画、音楽の中に、私たちはしばしば「色」に象徴を見出す。
たとえば、チビ黒サンボは長年、人気の絵本だったが、偏見と誤解の象徴として教室などから姿を消した。
読み解くとき、多くの人が疑問に思うのは「なぜ黒が悪、白が善の象徴として扱われるのか」という点だ。
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ふと映画『マルコムX』における一場面を思い出す。
マルコムが辞書を書き写す姿。
彼は疑問を抱いていた。
「白=潔癖・純粋/黒=邪悪・陰・・・これが現実なのか?」と。
色に付随する意味は、文化や歴史によって作られたもので、必ずしも自然の摂理ではないことに気づかされる。
そして、同じテーマは映画『黒いジャガー』(原題:Shaft)にも表れる。
黒人の主人公が、都市の闇や犯罪と向き合う姿は、黒という色が内包する偏見や恐怖と、個人の尊厳の対比を鮮やかに描き出している。
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ここで服飾的な視点も交えてみよう。
白の反対色は黒とされる。
しかし、黒の反対色は赤だと聞けば、少し混乱する。
白と黒という単純な二元論に慣れた目には、この逆説が小さなショックとして響く。
もしかしたら「赤軍派」や「共産主義」や「社会主義」の象徴が「赤」なのは、(根拠のない個人的な印象だが)「白でも黒でもない象徴」なのかもしれない。
文化的象徴と視覚的現実のズレは、色に限らず、私たちの認識全般に共通するテーマなのだ。
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さらに音楽の世界に目を向けると、不確かな記憶ではあるが、「チャーリー・パーカー」と「ディジー・ガレスピー」が黒人初のグラミー賞を受賞したとき、あの有名な「エド・サリバン・ショー」に呼ばれた際の表情が忘れられない。
笑顔ではなく、苦虫を噛み潰したような顔で・・・
「俺たちの音楽を商品扱いするんじゃねぇ、散々差別してきたくせに、受賞したら手のひら返すのかよ」
と滲み出ていた。
日本ではレーザーディスクに残っているらしい。
見たことがある人もいるだろうか。
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さらに、差別や偏見は時に「無自覚の教育」や「社会の慣習」によって繰り返される。
黒を「危険」と見なし、白を「安全」と見なす視覚的偏見は、物語や音楽、映画の中でも反映される。
だが、マルコムや『黒いジャガー』の主人公は、その象徴性を逆手に取り、自分自身の力で解釈を更新していく。
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それ(後者)を裏付けるような事実を見直してみてほしい。
ほとんどの国の”1日の始まり”は午前零時という真夜中である。
そして旧約聖書などを重んじるユダヤ・イスラム圏内では午後6時が1日の始まり。
そう、夜から始まる・・・夜がなければ昼が来ない。
”夜=黒”があってこその”昼=白”となる。
また仏教などの世界では”陰陽”という考え方がある。
”陰=闇=黒”がなければ”陽=光=白”はないのである。
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そして”ラジオ深夜便”の”絶望名言”というコーナーでは”過去の名著に書かれた絶望(黒)のなかに希望(白)を見い出す”というのを行なっている。
他の記事で書いたが「ネガティブ(黒)なしにポジティブ(白)なし」という理論も成立する。
青島幸男が書く歌詞には”矛盾や失敗(黒)を笑い飛ばす事によって解決(白)とさせる手法”が散りばめられている。
また、不思議なつながりとして、囲碁の”白石・黒石”、オセロの”白面・黒面”、さらにチェスの”白駒・黒駒”へと不思議は続く。
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そして問いかけたい。「白=善、黒=悪という二元論は、私たちが学んだ社会的ルールにすぎないのでは?」と。
色の意味を疑い、象徴の裏側にある歴史や権力構造を読むことこそ、真の理解につながる。
黒が赤に転じる服飾的対比のように、常識は時に裏返るものなのだ。
音楽や文学に触れるときも同じだ。表面上の象徴だけで判断せず、その文化的背景や個人の解釈を尊重することが、深い理解につながる。
偏見を打ち破るのは、目に見える色ではなく、私たち自身の意識なのだ。
チビ黒サンボも黒いジャガーも、単なる物語や映画のキャラクターではない。
色彩や象徴、偏見と向き合う私たち自身の鏡なのだ。
白と黒、善と悪、象徴と現実の間で揺れ動く意識こそ、文化理解と人間理解の鍵である。
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そしてそれは日本における「健常と障害」にも映し出される。
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当事者として何が言いたいのかって?
”物事に白黒つけるなんてナンセンスなんだよ”
構想・構成・整文・レイアウト:北のいわし
ドラフト:ChatGPT Type-S
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制作して参加しているグループ