北のいわしノート

21世紀の青島幸男(政界以外)を目指している七代目立川談志かぶれの戯言

釣った魚に餌はやらない:それは男だけに限らない

結婚すると男は変わる、なんていまだによく耳にする。

しかし、結婚すると女も変わるのである。

それが良い方向であれば、お得な選択だったわけだが、果たして本当にそうなのか?

(断っておくが、男女差別的記事ではないが、あえて”男””女”という表現を使わせてもらう)


仕事においても同じことが言える。

上司と部下の関係を思い浮かべてほしい。

上司は部下に期待をかける。

部下はそれに応えようと努力する。

しかし時には、期待という名の“餌”が義務感に変わり、自由な発想を阻むことがあるのではないか?

本当に、与えられるべきは「指針」なのか、それとも「管理」なのか?


昇進についても考えてみる。

出世や評価という“餌”は、誰にとってのメリットだろう?

昇進することで自分が幸せになるのか、それとも組織の思惑に応えるだけで終わるのか。

もしかすると、昇進のために自らを変えようとする瞬間、自由意志はどこかに置き忘れられてはいないだろうか?

自由意志を持ち続けた者は、スピンアウトして独立する。

趣味の世界でも同様だ。

初心者と上級者、教える者と学ぶ者。

教える側は技術や知識を伝えるが、知らぬ間に「こうあるべき」という枠を押し付けてしまうことはないか。

上達することは素晴らしい。

しかし、その過程で自分自身の楽しみや独自の感覚が置き去りになってはいないだろうか?


そして、ボランティア。

本来は善意として始まった活動だ。

阪神淡路大震災が”ボランティア元年”なんて呼ばれている事に、昔からボランティアに関わっている人々は違和感を覚えているだろう。

オレがボランティアを始めて行ったのは、威張るわけではないが40年以上前だ。

しかし最近では、善意の行動も、社会全体からの期待や圧力によって“義務”のように見えることがあるのではないだろうか?

災害が発生した時、自衛隊の活動よりボランティアの活動ばかりがテレビで報道される。

元々は善意としてのボランティアだったはずなのに、今はボランティアが強制されているかのように見えるのはオレだけだろうか。

報酬や評価ではなく、社会からの餌・・・”期待や視線”・・・が重くのしかかることもある。

誰もが良かれと思って始めたはずなのに、知らぬ間にルールや構造に縛られてしまう。

こうしてボランティアもまた、独裁を生む構造の一部になってしまうのだ。


問いかけたい。

私たちは本当に自分の意思で行動しているのだろうか?

それとも、与えられる“餌”や期待、評価、社会的な眼差しに従って動かされてはいないだろうか?

与えられたものにただ応え、指示に従うことで、自由や創造はどこかに押し込められてはいないだろうか?

もちろん、ルールや期待がすべて悪いわけではない。

社会や組織の秩序は必要だし、指針があるからこそ成長できることもある。

しかし、そのバランスを見誤ると、私たちはいつの間にか自分を失い、他者の思惑の中で生きる魚になってしまう。


だからこそ、自問することが重要だ。

「これは本当に自分が望むことか?」

「自分の軸を見失わずに行動できているか?」

「与えられた餌に手を伸ばす前に、自分の意志を確かめたか?」

釣った魚に餌をやらないのは、男だけの話ではない。

女も、上司も部下も、初心者も上級者も、社会の善意も、みな同じ構造の中にいる。

与えられる“餌”に無意識に従ってしまうと、知らぬ間に自由を奪われ、独裁者を生む構造の一部になってしまうのだ。


問いかけは続く
あなたは、自分自身の意思で泳いでいるだろうか?
誰かの餌を追いかけるだけの魚になってはいないか?

構想・構成・整文・レイアウト:北のいわし
ドラフト:ChatGPT Type-S


▶︎ 著者「北のいわし」について

制作して参加しているグループ