音声だけで聞くラジオ。
当たり前のことだと思わないでいただきたい。
何かをしながら、つまりは「ながら聞き」ができるという利点の他に、視覚情報がないため、読書に近い感覚を持つことができ、聴いている側に世界観を作らせてくれる。
さて、ラジオで聴くというのには何があるだろうか。
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最後に挙げた「朗読」と「ラジオドラマ」の違いについて、最近「新日曜名作座」において”故西田敏行”から引き継いだ”段田安則”に焦点を当てて見直してみることにしよう。
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ラジオドラマは声と音楽と効果音で成り立つ。
しかし、そこに沈黙が加わった瞬間、リスナーの心に深い余白が生まれる。
これに尽きる。
まるで「声で奏でる」かのようである。
リズム、休符、そして相手との掛け合い。
その掛け合いが、まるでラップバトルやブレイキン、さらにはジャズの4バースの如く、”対立”ではなく”リスペクトしあった上での会話”に聞こえる。
相手が出すフレーズ、それに対応してこちらが応える。
息が合えば成立する。
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最近は「朗読」「ラジオドラマ」において、余計な効果音やBGMが多いと感じるのはオレだけではないだろう。
そこに”本当の語り”があるのなら、効果音やBGMはいらない、いや、邪魔にすらなるのだ。
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さて、”故西田敏行”から後を引き継いだ”段田安則”の「声の演技」はどうだろうか。
彼は言わずもがなの「性格俳優」とも言える”故西田敏行”との共通点がある。
しかも、青年座養成所から青年座へ進み、そして俳優の道へ進んだという「劇団系の俳優」という「演技力」ではピカイチと言っても過言ではないだろう。
先日の放送で強く思った。
”段田安則”が「もう、いい!」とのセリフを言い放った時、そこには「呆れ・諦め・哀愁・思いやり・期待」全てが詰まっているように聞こえた。
果たしてこの4文字の日本語に、これだけの感情が載せられるだろうか。
これこそ「新日曜名作座」に相応しい、見事なキャスティングである。
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そして、絶妙な沈黙を挟んでからの”竹下景子”のセリフかナレーション。
その沈黙は演出家による「作られた間(ま)」ではなく、俳優の本能と呼吸で生まれた”間(ま)”だ。
やはりここで”本物”かどうかが試される。
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少し朗読に話を移そう。
少し前まで「やなせたかしの生涯」を、アンパンマンの声担当”戸田恵子”が朗読していた。
もしかしたらNHK ONEにアーカイヴが残っているかもしれない。
「アンパンマンの声優だから」というのを完全に無視してもなお、「語り」の素晴らしさは群を抜いていた。
色々な番組で「アナウンサーによる名作の朗読」も耳にするようになったが、1日でもいいので修行に行ってもらいたいとすら思ってしまう。
そこには「絶妙にコントロールされた沈黙=間(ま)」があるからだ。
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沈黙とはなんだろう。
例えば”マイルス・デイビス”や”チェット・ベイカー”の朴訥としたフレージング、そしてカウントベイシーが隙間に入れる右手人差し指1音の強烈な1打。
これは「沈黙があってこそ活きる」のである。
あの端正なピアノで知られる小曽根真も、ゲイリー・バートンと組む前は、オスカー・ピーターソンより速く弾けるのを誇りにしていた。
つまり、速さも武器だが「沈黙という間(ま)」があると、全てが「粋」になる。
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沈黙があるからこそ、言葉が生きる。
ラジオという見えない舞台に、沈黙という最強の照明が差し込む。
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